ご注意:苦痛・流血をともなう本編の過激描写は、小説としてのフィクションです。
決して人体に試さないで下さい。死亡・大怪我・病気に至ります。



Любовь


◆第五話(最終回)


 時が流れ、頭髪が薄くなり、手足の関節が油の切れた蝶番のように
軋み出す頃になると、人間はようやく、過ぎし日々を懐かしく、切実に
惜しみ出す。
 果たせたこと、逃したこと。
 積み上げたもの、失ったもの。
 実った恋、実らなかった恋。
 鏡の中のおのれの顔に問いかける。この人生で良かったのか、
人生を生きたのかと。
 比較したところで意味はないのかもしれないが、僕の世代の人間は、人類史上
初のあの悲惨な世界大戦という試練を多感な時期に受けたことで、どことなく、
その後の生涯を実感なく、しかし実生活面では食べるためになりふり構わぬ
必死さで、ものすごい速さで移り変わる世界の情勢に右往左往しながら、
しがみつくようにして生きてきたと思う。
 中世の世界が色濃く根づいていた戦前の倫理や暮らしを、夢のように
遠くにおきながら、戸惑い、混乱し、時には情けなくなりながら、明日の糧の為に、
根無し草のような空疎を抱えて、無我夢中で生きてきたはずだ。
 月にロケットが飛ぶなど、誰が予測し得ただろう。
人工の星が出来るなど。氷山にぶつかって豪華客船が沈んだその
同じ世紀に、空路が生まれ、旅客機が世界中を短距離で繋ぐなど、いったい
誰が想像しえただろう。電信電報に代わり、地球の裏側とも互いの顔を
見ながら話せるようになる日常がくるなどと。
 戦争があまりにも悲惨であったので、僕たちは誰も、その頃のことを語らない。
すさんだ時代であったあの頃に犯した、大なり小なりの罪から逃れるように、
誰もが日常という名の平穏に大急ぎで駆け戻り、過去をなかったことにして、
忘れようとする。
 だけど、本当は忘れてはいないのだ。
 老境になって、それはふたたび、ひたひたと暗い水で浸してくる。
罪の黒い水の中に、それだけは混じりけなかったと誓える、古い古い
恋の上澄みをきらめかせて。


 事業から引退して、湖水地方の別荘に隠遁した僕の前に、懐かしい
顔があらわれた。
 僕同様に老いた顔が、少年時代そのままに、感動をこめて松林の
向こうから繰り返していた。
「ミハイル。ミハイルじゃないか」
 僕はふるさとの織物工場の息子であったところの、幼馴染と抱き合った。
 戦後、人はばらばらになってしまい、何百年と続いた土着の名家も、没落したり
転居したり、あるいは外国人と結ばれて、遠い国へと去っていった。
子供の頃によく遊んだ地主の息子も、先祖伝来の土地を売り渡し、今は
娘の嫁ぎ先である別の都会にいるという。
 織物工場の幼馴染とは、戦争以来の再会だった。
 街が陥落した日、被服類の軍需を扱っていた彼の家は、敵軍の侵攻を
いち早く知った軍部より撤退命令をうけて、親戚ぐるみで街から脱出。
工場を撤収しようとした第三帝国軍には、わざと壊した機械を土産においていった。
それ以来、彼とは一度も逢うことなく、戦後になっていたのだった。
 老妻と旅行に来ていた友人を別荘に招き、一晩中僕と彼は懐かしい
昔のことを語り明かした。互いに少年の頃しか知らぬのに、その後に
降り積もった年月は、顔を見、声をきくなり、暖炉のあかりと共にふしぎと溶けた。
「ミハイルは、街によく帰るのかい?」
 ウイスキーを傾けて、僕はゆっくり首をふった。
一家をあげて都に移住し、そこで父も母も妻も看取ったと伝えると、友人は
お悔やみを述べた。僕たちは笑った。
もうじき、彼も、僕も、遠からぬうちにそうなるのだろう。
「五年前、今生の見納めに、街に帰ったことがあるよ」
 友人は言った。
「織物工場の跡地はすっかり住宅地となっていたね。駅前にはビルが建ち、
車がアスファルトの道路を走っていた」
 友人は、街を出て以来一度も郷里に帰ったことのない僕に、ふるさとの
話をしてくれた。
 なじみの店の看板がそのままであったこと、知り合いの一家が息災で
あったこと、学校がまだ残っていたこと、戦後校長をつとめたアレクサンドル先生が
数年前に他界したこと。
 翌日、僕は友人夫妻を駅まで見送り、皺だらけになった手で
固い握手を交わした。そして別れた。
 屋根の半壊した水車小屋にすんでいた乞食娘の話は、ついに出てこなかった。
男同士、それは思春期の恥部なのだというかのように、僕も、友人も、
はじめてボリスに連れられて乞食娘を見た時と同じように、一切そこには
触れることがなかった。

 イリーナのその後については、誰もが口を閉ざして語らない。
イリーナを敵軍に引き渡した女たちを含め、それについては
誰もが知らん顔を決め込んだ。
 罪から目を逸らすには、イリーナという乞食娘など、最初から街に
存在しなかったことにすればよいとでもいうかのように、それは禁忌の名となった。
そして誰もが忘れなかった。水車小屋が、罪に触れることを怖れるかのように
その後取り壊されもせず、放置されていたことからもそれは明らかだった。
 水車小屋については、織物工場の友人が教えてくれた。
彼はひとことだけ、思わず知らずといったように、それを教えてくれた。
「水車小屋がね、まだ残っていたよ。蔦とつる草に埋もれてね、屋根ばかりが
橋の上から見えていた」
 幸運な男だ。とても幸せな男だ。彼はきっと天国の門をくぐるだろう。
何故ならば彼は、それしか知らない。彼にとってのイリーナとは、
かぎ十字兵に連行されたところで、終わっているのだ。
あの薄暗い小さな水車小屋のことを、彼は忘れないだろう。
だが僕は、彼とは違い、それからのイリーナのことを少しばかり知っている。


 街が占領された後、下町の鍛冶場から、志願したのか選ばれたのか、
街の人々の動向を監視する、第三帝国軍の犬が組織された。
ボリスとグレゴリも、その一員となり、かぎ十字の印をつけた。
 第三帝国は人間の嫉妬心を利用して、人心を操るのがうまかった。
ベルサイユ条約の後に干上がった国民の貧しさへの不満と憤りの矛先をずらし、
反感を煽り立てるようにして、繰り返し不幸な民族のことを生き血をすする
守銭奴のごとくに宣伝して回ったのも、その一例だ。
 鍛冶場や採掘場ではたらく、彼らのような貧しく卑しい人間が、常日頃から
嫉妬していた街の富貴層を監視する。これ以上に有能で、無慈悲な犬は、
どこを探してもいなかっただろう。
「家を調べる」
 上階層の住民や役人、警察官に対しても大威張りで睨みを
利かせることが出来るというにわか権力は、ボリスを大いに
付け上がらせた。
 ボリスは手始めに、尻を叩かれた恨みのあるアレクサンドル先生の
家へ押しかけると、『略奪・暴行のような非人道的な行為をするはずがない』
第三帝国の犬にゆるされたぎりぎりの線で、街の人たちから尊敬されている
アレクサンドル先生と、その妻、その息子と娘を、散々に侮辱した。
 ボリスは、家族の見ている前で、アレクサンドル先生に下着姿になるよう
強要したそうだ。
 権威権力をもった人間に媚びへつらい、大義名分を得たうえで
合法的に人間を虐待を出来るという立場を得たボリスは、水を得た魚だった。
その結果、ボリスはますます態度がでかくなり、ますます蔭では嫌われ者となった。
 彼が棍棒や手錠をちらつかせながら街中を歩くと、人々はさっと
彼を避け、話しかけられれば当たり障りのない二三の社交辞令を
返してその場を離れたり、一方では当座の処世術としておもねったり、
愛想よくしてみせた。
 そんな人々の反応がボリスの得意をさらに増長し、ボリスは占領軍の
傀儡として、さらに横柄になっていった。
「虎の威をかる狐だよ。ひとりじゃ何も出来ないのさ」
 そのとおり。
 ボリスのような人間がもっとも憎み、踏み潰したいと願う人間は、手の爪に
垢などない、学業を積んだ頭のよい、誠実な努力とたゆみない修練を積んで
真面目に生きる、学者や医者などの、いわゆるインテリ層だった。
不幸な民族がまとめて処刑されていた絶滅収容所においても、育ちや容姿や
頭のよい男女とみれば、真っ先に監視者としてそこで力をふるっていた猿人どもの
総リンチの標的となり、内臓が破裂し、顔が二倍に腫れ上がるまで殴られたというが
(僕は彼らのような人間を人間とは呼びたくない。何割かは
生まれつき、人に嫌がらせをしたり、陰湿な方法で叩き潰すことに
快感を覚える、先天的な欠陥が脳にあったとしか思えない)、
その手の戦時下克上はボリスのような男に対してもっとも有効だったのであり、
因縁をつけて捕まえた善良な人々を、いつまでもねちねちと、広場などの
目立つ場所でこきおろし、侮辱行為を重ねているさまは、戦火より遠く
はなれた僕のいた地方においても、見る人の心を重たくさせる、嫌な、嫌な光景として
戦争の記憶の中の、どす黒い点となっている。
「第三帝国に叛逆の意志がないか、この家を調べる」
 上流階級の家が、ボリスの獲物だった。
略奪・暴行は禁じられてはいたものの、抜け道はいくらでもあるのだぞと
しらしめるように、ボリスはやって来た。
汚い靴のままで上がりこんだボリスは、命令口調で家人を壁際に並ばせ、
見識ある立派な家長や慎ましい婦人に、無意味に食器棚や肌着をおさめた
引き出しを開け閉めさせたり、ばかみたいに凄んでみせたりしたついで、
去り際に宝石や時計などの金品を要求し、
「まあ、何かあれば、言ってくれたらいい」
 そっくり返って恩着せがましい偉そ風を吹かせることも、忘れないのだった。
「ボリスのやつ」
「みっともなさを極めてるね。いまにみておいで」
 いくら嘆いたところで、救いの主たる連合軍はまだ遠く、第三帝国は
かぎ十字の不気味な旗を着々と立てながら内陸を制圧中であり、
家族の住んでいる街ごと人質にとられたかっこうとなった被占領民たちには
たとえ適当な武器があったとしても、報復を怖れて反抗の声を上げること
出来るはずもないのだった。
「やめろ」
 僕は、声を出した。
ボリスは振り返って僕を見た。
「やめろ。ボリス」
 ひとけのない路地裏に、人妻が連れ込まれて、ボリスに身体検査を
されているところだった。

 僕はその日、街を脱出した織物工場の友人のために、馬の尻尾の
ポーリナを連れて工場に隣接した友人の家を訪れ、残された
家財道具の中からこちらが保管してやれるものがないかどうかを
下見に来ていたのだ。
 工場を奪えなかった腹いせに占領軍は何もかもを滅茶苦茶にしてしまっており、
床には家族の写真や、思い出の品、価値がないとして叩き割られた食器などが
散乱したままになっていた。
「善良な市民かどうか、よく調べておかないとな」
 ボリスはその工場近くの裏路地に呼び出した人妻を連れ込んで、
壁に押し付けた女の胸や尻をいじりまわしているところだった。
 いつもの口上をいやらしく重ねながら、ボリスは女をさまぐった。
「逆らったら、お前のだんなを不敬罪で訴えてやるぞ」
 人妻は顔をそむけて、辱めに顔をあからめながら肩で息をしてじっとしていた。
「なんだ、ミハイルか」
 突然現れた僕に、いましも女に膝をつかせて、口淫させようとしていた
ボリスは興ざめした顔をした。下劣な人間にも一抹の遠慮はあるものか、
それまで、ボリスは旧知である僕の家には徒党を連れて踏み込むような
無体をはたらかなかったし、図々しくも偶然道で会えばなれなれしい
挨拶を寄越すほどであったから、邪魔をした者が誰かをしると、ちょっと
ぽかんとした顔をした。
 だが最初の驚きがさめると、ボリスはいつものあの、ふてぶてしい
笑みを浮かべた。
 お前か、おぼっちゃんか、しかたないな、そんな侮りの笑みだった。
その優越感の笑みは、彼の非道をとがめる僕の顔つきと、僕が
後ろに庇っているポーリャを見た途端に、ふつりと消えた。
 むっとなり、それから黙り込み、一端引っ込めた笑みが、ふたたび
ボリスの顔面を埋め尽くした時、
僕には手に取るようにボリスの気持ちの変化が分かった。
----彼女を後ろに庇って正義感面をしているつもりのこの世間知らずの
 おぼっちゃんに、ひとつ、権力ってものを思い知らせてやらないとな。
 後ろでポーリャが僕の腕を懸命に引いていた。
「帰りましょうよ、ミハイル」
「久しぶりだなあ、ミハイル」
 人妻を立ち去らせると、ボリスは舐めるような目で僕の背後にいる
ポーリナを眺め、にやにやと僕に向き直った。
その胸にはかぎ十字の印があった。
「ちょっと付き合えよ。お前は友だちだ。特別に、面白いものを見せてやるよ」
「ボリス」 
「夜には帰してやるよ」
 それは命令だった。
話す間も、ボリスの目はずっとポーリナの方に注がれており、ポーリナを
人質として、僕を脅していた。
「ミハイル。行きましょう。帰りましょう」
 泣きそうな声でそう訴えるポーリナに、ボリスは肩をすくめて言った。
「ミハイルとは幼馴染だ。その誼で、用事があるだけさ」
「だめよ、ミハイル」
「ポーリャ」
 僕はポーリナの手を握った。ポーリナだけは護らなければならなかった。
「本当に心配いらないんだ。家まで送っていくよ。僕はこれから、ボリスと
行くところがあるから」
 
 それからのことを、どう話したものだろう。
占領の衝撃の合間にも、イリーナのことを忘れたわけではなかった。
だが水車小屋の乞食娘が連行されたと知っても、僕は父や兄たちと一緒になって
家族および商売をまもる算段に右往左往し、あまりにも強い不安の中で
忙殺されていたために、イリーナが捕縛された一報にがつんと衝撃を
受けはしたものの、現実的には、悪夢の中のひとつのこととして、なす術も
なかったのが実情だった。
 僕はそれを、他ならぬ僕の下の兄からきいたのだ。
「水車小屋にすんでいた乞食の娘が、かぎ十字の連中に捕まって
連れて行かれたそうだ」
 とうに分かっていたことだったが、僕の下の兄も、イリーナの許に通っていた
男たちのひとりだった。それを知るのは、何だか切なかった。
 上着のポケットに残っていた、けばけばしい色をした棒状のねじれ飴を
手でもてあそびながら、下の兄は、イリーナの為に動こうとして焦りだした
僕の軽挙を牽制するように、鎮痛な顔で首をふった。
兄は手の中で、イリーナの飴、イリーナを可愛がった淫具、イリーナに
与えてきた餌を、ぱきんと追った。
「あの乞食娘は、もう、戻ってくることはないだろう」
「イリーナがどうなったか知ってるか?」
 ポーリャを家に送り届けると、ボリスは汚い顔を寄せて、早速に
僕に一撃をくれた。
 僕は無言で憂鬱な顔をした。
下仕官が見せてきた、あの粗末な写真入りの張り紙のように、レジスタンスの
女や不幸な民族の女たちが受けているところの、無残な性拷問の一種に
かけられていることは、ほぼ確実なのだから。
 それでもそこには、希望とも呼べぬような、一抹の希望だけはあった。
イリーナがとびきりに美しい女であることが、僕のその希望を支えていた。
 第三帝国の勇壮な思想に共鳴し、占領軍の訪れを誰よりも歓迎した
エフゲーニーの語るところによれば、かぎ十字軍の幹部たちの間では
選りすぐりの女たちを集めたハレムを持つのが流行っており、その血統に腐った
民族の血が混じっていないことを条件に、何らかの理由で捕虜となった
見目のよい女たちには、ご指名により、かぎ十字の幹部の慰みものになるという
破格の栄誉と光栄が待っているのだそうだ。
 何のことはない。第三帝国の連中も、『雄鹿の館』を真似てつくろうというのだろう。
かぎ十字たちは移動の軍機や列車にも慰安のための捕虜を連れ込んで、
順番にサスペンダーを下げては、女の穴を埋めることで行軍中の退屈を
まぎらわすという悪癖と行儀の悪さを誇ったものだった。
 エフゲーニーのもたらしたその知らせは、僕を少し慰めた。
イリーナは美しいし、性質もおとなしい。うまくいけば、選別されて上層部に
差し出され、どこぞの幹部に気に入られ、専属になっているのではないだろうかと。
 僕のその希望を、ボリスはあっさりと打ち砕いた。
「イリーナは、まだこの街にいるぜ」
 おぼっちゃんの正義や潔癖を穢すのが嬉しくて嬉しくてならないと
いったように、ボリスは凍り付いている僕の背を押すようにして、ぐいぐいと
前に歩かせた。

 僕の街は、中世から時をとめていると、以前に述べた。
 占領軍は幾つかの住み心地のよい屋敷を撤収して、そこに分かれて
駐屯していたが、連行してきた不審者を威圧するためにも、意気を挫くためにも、
適当な監獄を必要としており、大昔に造られた古い地下室がそれに
あてられていた。
 悪い想像は的中し、そこにあったのは、二人の下仕官が見せてきた
あの張り紙と同じ装置だった。
 水車小屋から地下室に移されたイリーナは、藁と鎖と襤褸着の
代わりに、鉄板の分娩台と、膝までしかないこどもの寝巻きのような囚人服と、
たくさんの尋問道具を与えられて、そこにいた。
 かぎ十字兵たちが、田舎ものの卑しい顔つきの者たちも含めて
分娩台の上に固定されたイリーナを取り囲んでおり、イリーナは、いや、もうよそう。
 舌をかまぬように嵌められていた口枷や、股に埋め込まれていた棒状の
黒い機械や、そこから伸びたコイル、不気味な通電の音、数々のクリップ、
占領軍に協力して作業を手伝っているボリス、据わった目つきで
電源を操っている男たち、合間に行われる『休憩』、通電されるたびに
目をひん剥き、腰をがくがくと上下させ踊っていたイリーナ、それで説明は十分だ。
 張り紙の真似をして、可動式のそっくりな器具を地下室に設計したのは、
エフゲーニーだったと、後で知った。
「二時間前なら、もっと活きのいいところが見れたのにな」
 いつの間にか、僕の背後に立ったのは、ボリスではなく、グレゴリだった。
彼はイリーナの飼育者・管理者として、地下室の主任のようにふるまっていた。
「イリーナは電流を気に入ったようだ。毎日与えてやっている」
「ほおら、ご馳走だぞ、イリーナ」
 ボリスが電圧を上げた。蜘蛛のように手足をばたつかせて、イリーナが
すごい悲鳴を放った。筋という筋がひきつり、煙や火が出ぬのがふしぎなほどの
火花が飛び、尻に挿入された黒い道具が尻尾のように、ばたばたぶるぶると上下した。
「ウギャガガガ、ガガガガガ」
 電撃が停止されると、イリーナはがくりとのけぞって失神する。それが繰り返された。
 『休憩』の時間がきて、イリーナの体内から電棒が外された。
あらかじめ順番でも決まっていたものか、かぎ十字兵がサスペンダーを
下げおろし、イリーナにおのれのものをこじ入れだすのを、僕は悪い夢の
ようにして壁際から見物していた。こっけいなほどに時間に正確なのは、
電流調教も陵辱も、軍務の日課の一つになっているからだった。
(電流が止まっても痙攣は続いているからな。そこにぶち込むと、天国だった)
 下仕官の言葉を裏打ちするように、兵はずいぶんと励んでいた。
 グレゴリが背後から僕の肩をつかんだ。
「ちゃんと管理して死なないように飼い殺し、淫芸をたっぷりと仕込んでから
上層部の出し物にしてやれば、俺の昇進と昇給は間違いなしだ。
電流棒を見せただけであそこが濡れるように、イリーナを調教中だ。
明日、調教が順調かどうかを確認しにお偉方がここに来る。
特製のねじれ棒を肛門と膣の二箇所に挿入して、具合を検分する。
感度と使用感に問題なければ、近日中にもイリーナは中央にはこばれる」
 口枷を外されたイリーナは、刺激と痺れのせいでだらしなく溢れ続けるよだれを
唇からも下口からも垂らしながら、先ほどの悲鳴とは違う種類の呻きを
ぜいぜいと不自由に上げていた。捕らえられてからこのかた、あらゆる
実験をされてきた証拠として、白い乳房にも器具に締め付けられた鬱血があった。
 僕の記憶は、ここで途切れている。
どうやら僕は、イリーナを庇おうと、イリーナの上に覆いかぶさり、
かぎ十字の兵から殴打を受けたらしい。
 イリーナ、イリーナ。
 地下室から放り出されながら、僕は叫んだ。イリーナ。
 それからのことは、夢だと思ってくれればいい。だが僕ははっきりときいたのだ。
口の利けない乞食娘、手の届かぬところに行ってしまった僕のイリーナが、
いつまでも変わらぬきれいなイリーナが、掠れた声で、「ミハイル」と呼ぶのを。

 それから三ヶ月後。一夜明けると、占領軍は消えていた。
撤退のトラックに乗せてもらえず、置き去りにされたボリスは、街の人たちから
殴る蹴るの私刑を受けた上、橋の欄干から荒縄で吊るされて、吊るし首にされた。
そのことは街の汚点として、いつまでも街の歴史から抹殺されることだろう。
 連合軍が街を解放したその日、別の星から来たような、明るくて強い、
新大陸の風をまとった兵士たちが街中を見て回り、腐りかけていた
ボリスの死体を回収したところで、ようやく僕の街の占領は終わった。
同時にそれは、中世暗黒時代から連綿と続いてきた、古い営みの終焉でもあった。
 グレゴリの行方は知らない。
野獣の如く人を従わせる凶暴さを秘めた、あのふてぶてしい彼のことだから、
かぎ十字の幹部たちがそうしたように、南米にでもうまく逃れて、豪邸で
暮らす生涯を送ったのかもしれない。イリーナも連れて行ったのかもしれない。
 僕の生涯も、終わろうとしている。
手編みのレースと祖父母の時代のゆりかごの中で眠っていた黎明から、
足腰が弱り病院で栄養の点滴を受ける落日までの、百年にも満たぬこの生涯。
あまりにも激動であったために、立ち止って考えることすら赦されなかった
この数十年。
 僕はこの世からすべり落ちようとしている。静かに、海の泡のように。
わずかな抗いの音を、乾いた喉から醜くも立てながら、もう終わりなのかと
執念ぶかく、ひとりごちている。
 末期の床から、僕は春を望む。叶わぬ夢と知りながら、もう一度、春の花を
みたいものだと、動かぬ指先を持ち上げる。
 雄の性にひそむ、どうしようもないものが、生きている限り追い求め、
あらん限りにそれを賛美する。
 僕は水車小屋へと向かう。
扉の前には石がある。僕は学生靴の先で、石の向きを変える。
 雨に打たれて萎れている時にも、水辺のそばで、ひかり耀いている時にも、
それはこの血のすべてと代わるような気がしたものだ。
 僕は、その花の名をしっている。



[完]
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