ご注意:苦痛・流血をともなう本編の過激描写は、小説としてのフィクションです。決して人体に試さないで下さい。死亡・大怪我・病気に至ります。

聖地の寡婦
■第十五夜 (最終回)


 兵舎にいたエラスムスは、ダビドの女奴隷が訪れたとのしらせに、とび起きて
玄関に走って出て行った。
 聖地の空は砂漠から昇る太陽を頭上にはこび、青々と晴れていた。
 エラスムスは女奴隷にとびかかるようにして、ダビドの容態を訊ねた。
「そうか。ダビドは助かったか」
「はい。毒が抜けておりますので、快復もはやいかと」
 それは黒髪のネリッサだった。
「植民地への出立については、ダビドさまの快復の様子をみつつ、延期するそうです」
「それで。ダビドは意識があるのか」
「はい。一夜明けてさきほどお目覚めになりました。助手の皆さんのお手当てが
功を奏したか、お言葉もしっかりしておられます」
 獄舎から戻ったネリッサは看病する助手たちの隙をねらってダビドの寝台に近づくと、
「ダビドさま。監獄のエウニケさんも命をとりとめました」
 とだけ囁いた。
 ダビドは何かの感情を深くためて無表情にその目を開いたまま、しばらくして頷いた。
ダビドはネリッサに何かを告げた。ネリッサの胸が絞られるほど、それは弱々しい声だった。
「はい、何か」
「ネリッサ。お前はもう、わたしの奴隷ではない」
 ダビドは机の上を指した。そこには遺言状と書類があった。財産の処分を含め、
事後の一切を書き記したものだ。
「本日づけで、わたしはお前をわたしの奴隷から解放してある。わたしの助手のうちの
誰かと夫婦となり、植民都市で薬を商うように。委細は先に発った助手たちに頼んである。
行きなさい。お前はもう自由なのだ」
「まさか。ダビドさま」
「ネリッサ。これくらいのことしかしてやれぬ」
 使用人の一人ひとりについて不自由のないように取り計らったその書置きは
ダビドに仕える者たちをみな泣かせた。ながく仕えている老僕などその最もたる
もので、「情けないことだ、ご主人さまがお亡くなりになったなら、この老体もすぐに
あとを追うと決めていたものを」と号泣やまぬ有様だった。奴隷は物である。しかし
ダビドだけは人として扱った。そういう主人だった。
「人体を解剖してみたらわかる」
 いつかダビドは言ったものだ。
「貴き者も、そうでなき者も、皮一枚の下はみな同じだ」
「ダビドさま」
 ネリッサはダビドの寝台の端にすがって泣き伏した。
 エウニケとダビドの間にあったものも、帝国人と奴隷のものではなく、男と女の間に
生まれるべくして生まれたものであった。それが分かっていたからこそ、ネリッサは
ダビドとエウニケの愛情を至上のものにしたかった。
 ネリッサは考えた末に、エラスムスを頼ることにした。
 エウニケは監獄長官の所有物である。そのエウニケを殺めようとしたダビドは、このままでは
器物破損罪で裁かれることになる。そのようなことがあってはならない。
賠償すればたいした実刑にはなるまいが、監獄長官のエウニケへの執着と、ダビドが最初の
妻を喪った経緯を知っているネリッサには、それは楽観できるものではなかった。
それでなくとも、同僚からねたまれているダビドである。下手に手が回れば、医師生命の終わり。
否、下手をしたら帝国領土からの追放である。
「そのとおりだ」
 エラスムスもネリッサの危惧に同意した。
「それで、黄金の隠し場所が分かったというのだな。そのことを総督に告げて、それを
聞き出すのにはエウニケに薬を盛ることも、仮死状態にすることも、止む終えない
処置であったことを、総督に申し上げればよいのだな」
「はい。ダビドさまには、長官の奴隷を殺めるつもりはなかったのだと。将軍エラスムスさま
からのおとりなしで、ぜひそのように」
 ネリッサはさらにそれに付け加えた。
「そして黄金が発見されたその際は、奴隷エウニケをダビドさまに譲渡することを、ご褒美として
総督に願って下さい」
「うむ。黄金さえ見つかれば、総督はそのくらいはお許しになる。何といっても皇帝からの
催促の使者が昨日も来たところなのだ。聖地の財宝発見はいかなる赦免にも勝る」
 エラスムスは請合った。
「しかしそれには、寡婦の証言がまことのものかどうかを先に確かめることが肝要だ。
財宝が見つからなければ、ダビドもエウニケも危ないのだからな」
「エラスムスさま」
「急ぐぞ」
 エラスムスはすぐに動かせる小部隊を動員すると、ネリッサを連れて、すぐに
聖地の西門へと向かった。


「檸檬の木。オリーブの木。砂漠の男神と大河の女神が結ばれし塔。その心臓に」
 ネリッサが伝えた寡婦の言葉は、エラスムスには意味不明だった。
「西の門と言った限りは、男神と女神が結ばれし塔とは、おそらくこの聖地建国の
碑のことを指すのだな」
 馬を飛ばしてきたその汗も拭わずに、エラスムスは碑の周囲を見廻した。
よかれと思ってダビドの異動命令を願ったことがダビドを追い詰め、自殺まで
はからせたかと思うと、エラスムスは全責任を感じずにはおられず、その目は
狂おしく血走っていた。
「檸檬の木。オリーブの木。木だと。そんな木など、何処にもないではないか」
「エラスムスさま。ダビドさまが、あそこに」
「なに?」
 工事現場に立つ砂埃が風向きのお蔭で吹き払われた。そこには助手に支えられた
ダビドの姿があった。近くには、そこまで乗って来たらしい輿が控えていた。ダビドは
憔悴の目立つその顔を上げ、食い入るような目で、空に伸びる建国の碑を見上げていた。
 ネリッサとエラスムスはダビドに駆け寄った。
「ダビド。何をしている」
「ダビドさま。まだ休んでいなくては」
「いや……」
 難しい処術をする時の精神力が医師を支えており、その目は力を失ってはいなかった。
ダビドの前には、建国の塔が聳え立っていた。
「エラスムスさま。どうなさいました」
 騒ぎに驚いて、壁の反対側にいた工事現場の監督人がやって来た。
「檸檬の木。オリーブの木?」
 監督人は目を丸くした。
「そのようなものは最初からございません。ご覧のように、石垣ばかりで。まてよ」
 監督人は工夫たちを呼び寄せた。
 以前この城門の左右にあった、巨大な石柱。聖都攻略の際に破壊され、再建の為に
分断されて取り除かれてしまったものの、確かにそれには木の彫りがあったと、工事人
たちは口々に証言した。
「左にオリーブの木、右に檸檬の木が彫られておりました」
「どこだ、その柱はどのあたりにあった」
 大急ぎで人々は新しく帝国式に改造中の西の大門に突進し、その位置を明らかに
しようとした。かつての面影はもはや残されてはいなかったが、石の重量と力の分散を
力学的に考慮し、新門も、もとの礎を生かした構成となっているために、工事人たちは
その場所を正確に憶えていた。
 木の模様の彫られてあった柱の場所と、記念碑に順番に視線を移し、人々は地面の
一点を見つめた。
「檸檬の木。オリーブの木。砂漠の男神と大河の女神が結ばれし塔。その心臓に」
「三点を綱で結んで、中心を割り出せ!」

 ネリッサと助手に両脇を支えられたダビドは、日陰からその様子を見守った。
 二本の柱のあった場所と、碑を繋いで、その中心にしるしの棒が立てられた。
工事現場なので人手と工具には不自由しなかった。
「古い舗装道路のあとが……」
 砂と戦火に埋もれてはその上に再建を重ねてきた砂漠の街は、古都であればあるほど
何階層にも古い町が下に埋もれているのが常である。案の定、掘り進めてゆくと、荷馬車の
わだちの跡が残る道路が出てきた。
 石を敷き詰めた道が見えたところで、今度はそれをはがしにかかった。
「ダビドさま。どうして此処に来たのです」
 ネリッサが問うた。ダビドはまだ具合の悪そうな青い顔をしたまま、ネリッサの差し出す
水筒の水を呑んだ。
「エウニケの左手にあった刺青は他の寡婦のものと少し違っていた。砂漠の男神と
大河の女神を示す古代記号の組み合わせ。それで、この碑のことを思い出したのだ」
 工事を眺めている彼らは、建設中の新門の傍に、一台の幌つきの馬車が停まったことに
気がつかなかった。ネリッサだけが、その馬車に見覚えがあった。
ダビドの家から監獄に走った深夜、ダビドの家の近くに停まっていた謎の馬車だった。
 馬車は小型だったが、車輪には戦車のそれのような黒い鉄環が重々しく、不気味に
はまっていた。
 幌が開き、馬車の荷台から商人風の男が降り立った。
 商人は、いったい何をやっているのかと興味を惹かれたかのように、落ち着いた足取りで
工事をしているこちらへとぶらりと歩いてきた。その男がただ者ではないともし分かる者が
いたとしたら、商人のその眼光の鋭さに他ならなかったが、商人は頭に砂よけの布を
巻きつけており、暗く鋭いものを宿すその目が浮かべる物騒も、その影になっていた。
 誰も商人に注意を向けていなかった。
 不審な馬車は男を降ろしたまま、もう立ち去っていた。
 商人はゆっくりと歩いてきた。ダビドに向かって。
 太陽の下、古い道の跡を掘り返しているエラスムスが、突然喜びの声を上げた。
「ダビド見えたぞ。土の下に、壺が見えてきたぞ!」
「ダビドさま」
 エラスムスのその叫びに呼応したかのように、突如、商人が壁に凭れているダビドに向かって
走ってきた。はっとしてネリッサは間に飛び込み、両腕を広げた。
「ダビドさま、危ない!」
 渾身の力で突き出された商人の刃はネリッサを刺し貫いていた。衝撃でネリッサの
からだは跳ね上がり、それから黒髪を乱してよろよろっと倒れた。ダビドはネリッサに
腕を伸ばした。
「ネリッサ!」 
「ダビドさま!」
 商人が繰り出した次の刃は、助手が商人に体当たりすることで先がずれたが、商人は
暗殺の達人だった。助手のからだは半回転して、どうと地面に投げ出されていた。
暗殺者の眼がぎろりとダビドをとらえた。
「ダビド、逃げろっ」
 エラスムスが叫んだ。倒れたネリッサを引き起こしていたダビドは、頭上から落ちてきた刃を
間一髪で避けた。暗殺者は間をおかず、ダビドを壁に押さえつけた。喉許に刃が光った。
「ダビドー!」
 ダビドは頭突きをするように男にくらいつき、その腕を掴んだ。鍛えてあるダビドの腕力は
暗殺者の力を押し留めた。力と力のせめぎ合いは、そう長くはかからなかった。エラスムスが
兵を率いてこちらへ来るのを見た男は、隠し持っていたもう一つの短刀をダビドに投げつけると、
猛然と駆け出して、エラスムスの手が伸びるよりはやく、西の大門の壁の陰で自ら首を斬って
自害してしまった。
「ダビド」
「大丈夫だ。その短刀に触るな。猛毒が塗ってある」
「なにっ」
「あたってない」
 男が投げつけた短刀の柄をダビドは辛くも拳で叩き落していた。
「ネリッサ」
 ダビドは倒れているネリッサの傍に膝をついた。ひとめ見て、女奴隷が助からぬと分かった。
ダビドは鎮痛な顔をして、ネリッサを膝の上に抱き上げた。
「ネリッサ。しっかりしろ。傷は浅い」
「ダビドさま……これでいいのです」
 掠れた声でネリッサはダビドを仰いだ。罪の一切をダビドをまもることで贖ったかのように
ネリッサは静謐な顔をしていた。ダビドはネリッサの黒髪から砂を払ってやった。ネリッサは
ダビドの胸に頬をつけた。
「嬉しい。夜にも、いつもそうやって私の髪を」
「ネリッサ」
「……エウニケさんはずっと……ダビドさまのことを」
 ネリッサは最後まで言えなかった。目を閉ざし、そこで息を引き取った。
「どうしてお前が狙われたのだ」
 エラスムスは自害した暗殺者の遺体を検分して戻ってきた。
「砂漠の暗殺者だ。誰かに怨みを買う覚えはあるか」
「ある」
 とダビドは答えた。
 ダビドはネリッサの遺体をそっと砂の上に横たえた。
「おい、何処へ行く。病み上がりだろう」
「馬を借りる」
 ダビドは近くに繋がれていた馬に跨った。そして馬を飛ばし、謎の馬車が消えた市街へと
引き返して行った。


 エウニケは牢の中に入ってきた男を見て悲鳴を上げた。
「エウニケ」
 男は手を伸ばした。ラウラがにたにたと笑いながら牢の扉に凭れてそれを見ていた。
「どうしたんだい、エウニケ。お前がたんとお世話になったお方じゃないか」
「エウニケ」
 凄みのある声で、男は踏み出した。男は焼け爛れたその手に鞭を持っていた。
「エウニケ。裏切ったな」
 それは帝国がこの街を制圧すると同時に行方知れずとなり、死んだものと
囁かれていた、聖都の顔役だった。エウニケは恐ろしさに震え上がった。
顔役は全身に聖地炎上の際のひどい火傷を負っており、その眼光とその声でしか
区別がつかぬほどに、顔かたちを醜く変えていたのだ。
 足枷の鎖がゆるすかぎり、エウニケは牢の奥へと退いた。
 ぜいぜいと聞き取りにくい声で、顔役は唸った。
「エウニケ。お前は、財宝の在処を帝国人に洩らしたのだな。わしはお前が心配で、
そして財宝が暴かれぬかと心配で、ひそかに聖地に戻り、黄金を見張っていたのだ。
エウニケ、裏切ったな」 
 鞭で打たれたエウニケは、壁に身をぶつけた。
ラウラがしゃしゃり出てきて、エウニケを引き起こし、顔役の前に突き出した。
「あたしの睨んだとおり、お前はあの医者のダビドと仲良く乳繰りあってたんだねえ。
それでダビドに、聖地の財宝の在処を教えたんだね。こちらの顔役さんはね、
それはそれはお怒りなんだよ」
「許さんぞ、エウニケ」
 エウニケの背を顔役は足で踏みつけた。ラウラがエウニケの足枷を外した。
「エウニケ。こちらの方が裏切り者に砂漠の制裁を加えたいそうだよ。あたしもそれに
参加させてもらうことになったのさ。長官め、何を血迷ったかエウニケを解放奴隷にして
妻にするなどと言い出して」
 ラウラの両眼が嫉妬と憎悪の狂気に光った。
「そうはさせるものか」
「エウニケ」
 顔役は焼け爛れたその手で、エウニケの頤を掴んだ。
「わしが裏切り者の女に加える処罰を憶えているだろうな。ありとあらゆる方法で
お前を責め苛んでやるぞ。砂漠の友人たちもお前を罰してやりたいと望んでいるのだ。
わしの復讐の凄まじさをたっぷりとその身で知るがいい」
 男が入ってきてエウニケを担ぎ上げた。ラウラがせかした。
「さ、長官が帰ってくる前に」
 監獄の外には幌つきの馬車が停まっていた。男が馬車を操り、顔役がその隣りにすわった。
馬車の中に入ったラウラはエウニケにふたたび足枷を嵌めて、それを幌を繋ぐ環と繋いだ。
「逃げられやしないよ、エウニケ」
 ラウラはエウニケの鎖をじゃらじゃらと手の中で鳴らして勝ち誇った。
「砂漠の皆さんのお仕置きが済んだ後で運よくまだ生きていたら、お前のそのきれいな手足を
斬り落とし、人豚として飼ってやるよ。そうなっても糞尿の芸くらいは仕込めるだろうからね。
もっともその時にはからだ中が焼印だらけで、お前の目や鼻も消え、誰だか分からなく
なっているだろうね」
 車輪に鉄輪を嵌めた馬車は走り出した。それを追う馬があった。
監獄の追手かと振り上げた顔役の鞭を手で掴み、馬から御者台へと乗り移ったのはダビドだった。
ダビドは御者を殴りつけ、馬車から蹴り落とした。
「危ない」
 砂埃を上げてたちまちのうちに馬車は暴走した。その鉄輪は凶器と化して荷車や
通行人を撥ね飛ばした。
「何事だい!」
 幌から顔を出したラウラは、御者台でもみ合っている顔役とダビドを見ると、短刀を片手に
大揺れになっている御者台へと足をかけた。
「しつこい医者め」
 ラウラがダビドの背中目掛けて短刀を振り上げた。馬車が歩道の岩に乗り上げて
大きく跳ねた。ラウラのからだは投げ出されて馬車から石畳の上へと落ちた。
「ギャッ」
 その自慢の顔を馬車の鉄輪がひき潰し、その腹を馬車の重みが二つに裂いた。
ダビドを追いかけ、暴走馬車を停めようと部隊を率いて馬を飛ばしてきたエラスムスの
騎馬隊がその上をさらに順に駆け抜けた。ラウラのからだは蹴り上げられ、踏みにじられた。
あとの道には肉屋でひき肉にされたような肉塊しか残らなかった。
「うぬ」
 顔役は揺れる御者台でダビドと組み合ったまま、その手を腰の刀へと伸ばした。
病み上がりではもたない。ダビドは眩暈がした。最後の力を振り絞り、ダビドは顔役の
首に手をかけた。
 暴走馬車は街の外へと向かっていた。
 骨も折れよとばかりに、ダビドは万力の力で顔役の首を絞めた。医者である。
首を押さえておいて突き放し、ダビドの片手は刀のように、人間の急所の一つである
喉の一点を正確に叩いていた。顔役はのけぞった。それから均衡を崩して落下し、
ラウラと同じく馬車の下敷きとなって潰れた。
「ダビド!」
 ダビドは手綱を握った。暴れ馬を御せるだけの力はもう残ってはいなかった。
街をとび出した馬車は暴走するまま、大河へと一直線に向かっていた。
ダビドさま、ダビドさま、馬車の中からエウニケが泣きながら叫んでいた。
「ダビド!」
 追いかけてきたエラスムスの馬が横に並んだ。すさまじい砂埃を上げて、街から飛び出した
馬車は河へと走っていた。エラスムスは走る馬鞍の上に立ち上がり、空を駆けるようにして
馬車の御者台に跳び乗ってきた。エラスムスとダビドは力を合わせて手綱を取った。
男二人の力に馬車が大きく傾いた。傾きながら、車輪の一つが外れてふっ飛んだ。
河の手前ぎりぎりで迂回した馬車は、車輪を失ったままがたがたと激しく赤土の上を揺れながら
そのまま斜めに突っ走った。
「ぶつかる!」
 ダビドとエラスムスは片側に倒れるようにして重心を移し手綱を引っ張った。
馬車はあやうく岩をそれて、やわらかな砂地に突っ込むようにしてようやく停止した。
「エウニケ」
 ダビドは傷ついた手にも構わずとび降りて、車輪を空回りさせている馬車の後ろに回った。
鎖枷をつけられたまま中で揺さぶられていたエウニケは額から血を出して傾いた馬車の底に
倒れ伏していた。
「エウニケ」
 ダビドはエウニケを抱え起こした。エウニケは小さく息をついた。ダビドはエウニケを抱きしめた。
「ダビド」
 煙幕のような砂埃の向こうに目を凝らしていたエラスムスが聖地の方を指した。
 街から総督軍がこちらへ向かって来るところだった。
 

 聖地占領軍の総督は宝物の発掘に狂喜乱舞した。
これで皇帝への顔も立つというものだった。
財宝の在処をもたらした褒美として、総督は奴隷エウニケを監獄長官から取り上げて
医師ダビドに与えた。
 医師はそれしか望まず、次の日には、助手たちを連れてもう聖地を出て行った。
「エラスムス。世話になった」
「また逢おう、ダビド」
 旅立つ一行は、将エラスムスが担ぎ手を手配した目立たない小さな輿をともなっており、
医師の下僕の老人がぴったりとそれに付き従って、中にいる者の世話をやいていた。
 朝の空に、月の幻が見えた。
 青い湖の上に漂う花びらのようだった。
 目蓋のうらに満ちる光と、この心地のよい眠りの中に、まだ遊んでいたかった。
涼しい風が吹いて、月を寄せてきた。久しぶりだ。こんな気持は、久しぶりだ。
「まずは、お前を奴隷から解放する」
 隣りの女は、ダビドの腕に腕をからめるようにして身を寄り添わせ、じっとしていた。
「皇帝の医師は貴族と婚姻することが決まっているが、わたしはずっと独身でいればいい。
そんな医師は大勢いる」
 まだ夢のようだ。長い夢だった。そして夢の中に現があり、こうして手で触れることができた。
 からだの隅々にまで、熱が満ちている気がした。生きている。
 新しい任官地の植民都市の活気が、海風と共に窓から流れ込んできた。
今日から忙しくなるだろう。その合間をぬって、脳外科手術の技術を助手たちに教えていこう。
 朝になっても月は消えなかった。
 女が手を伸ばした。ダビドはその手を握った。波の引いた睦みあいの名残も、まどろみも、
微笑みも、何もかもが懐かしく、新しかった。
 女の左手には、刺青の痕があった。
 


[聖地の寡婦・完]

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