ご注意:苦痛・流血をともなう本編の過激描写は、小説としてのフィクションです。決して人体に試さないで下さい。死亡・大怪我・病気に至ります。

聖地の寡婦
■第八夜


 ダビドの額に浮かぶ汗を、傍らの助手が手早く布でふき取る。
その間も、ダビドの目は一瞬たりとも、剃刀で頭髪を剃られ、特殊な薬品で
止血され、内部を露呈された患者の、むき出しの頭の上から離れなかった。
 管状きりで孔を開けた頭蓋骨を、のこぎりを使ってさらに拡げ、あらわれた
脳のみぞの間に埋もれている血の塊と骨片を、細心の注意を払って、慎重に
こそげとる。
 脳切開手術に要する時間と辛抱と集中は、果てしない忍耐と同義だった。
 麻酔剤を呑まされた上、椅子に縛り上げられている兵士が、雄牛のような
鼻息を立てた。その拳が、意識もないのに、我慢ならぬというように膝の上で
きつく握り締められている。
「よそ見をするな」
 ダビドは助手を叱り飛ばした。血管から、また微量な血が滲み出していることに
気がついた助手が、慌てて止血する。処置室の片隅では、患者の付き添い人が
こらえきれずに吐いていた。
「戦場よりひどいな」
 切開孔を銀板でふさぎ、鋲でとめ、縫合して包帯を巻いた頃には、ダビドは
全神経を使い果たして、まっすぐに歩くことも容易ではないほどだった。
 流し場では、エラスムスが手づから桶に湯を満たして、ダビドを待っていた。
「頭蓋切開だけは、何度みても、胃がひっくり返ったように気持ちが悪くなる。
まるで、船酔いしたようだ。人間の頭の中は、誰のものでも、あんな気色の悪い
ミミズの塊なのか」
「そうだ」
 香草入りの水で手を洗い、ダビドは血だらけになった衣服を脱いだ。
「王のものであろうが、蛮族の奴隷のものであろうが、皮いちまい剥げば、人間の
からだは皆おなじだ。違うとすれば、そこに病巣がある時だけだ」
 裸体で行う競技があるほど、鍛えた裸体がもてはやされている時代である。
ダビドも同性のエラスムスの前ではだかになることに、何の抵抗もなかった。
 海綿を手にとると、ダビドは全身の汗を流しはじめた。惚れ惚れと、エラスムスは
ダビドの体躯を眺め回した。
 医者は体力仕事だ。気を張り詰めている上に、時として、何時間も立ちっぱなしの
ことがある。切開や縫合などの雑用は助手に任せる医師もいるが、ダビドは最後まで
自分でやらないと気がすまない。そうしなければ、患者の快癒の結果にも、責任と、
自信が持てないからだ。
「偉くはない」
 ダビドはそのことを褒める友人のエラスムスに断りをいれた。
「臆病者なのだ。そうしなければ、安心できないというだけだ」
「お前が臆病者なら、帝国兵士など、敵前逃亡のうさぎも同然だ」
 からからとエラスムスは笑ったが、医業の合間に剣の鍛錬を怠らないダビドの
隠された真意を知るだけに、その笑い声には、どことなく、わざとらしい明るさがあった。
 血と汗を洗い流すと、ダビドは乾いた寛衣をまとい、遊びに来てくれた
エラスムスには悪いが、ちょうど運び込まれた急患を見に行った。
 風は乾いており、時折そこに、遠い砂漠の灼熱が入り混じって、聖都の午後を
鍋底のように温める。
 砂漠の国。そこで、ダビドは医学を修めた。
 郷里で疫病が流行ったと聴いても、すぐに帰ることは出来なかった。
よしんば、すぐに帰国したところで、アテナの死には、間に合わなかっただろう。

 ダビド。ダビド。助けて。あなた。
 新婚を過したつましい住まいは、疫病を出した家として、ダビドの帰国前に
焼き払われていた。
『ダビド。いちばん若いくせに、いちばん腕がいいお前は、深く憎まれたのだよ。
医学の最先端が学べる「生命の家」への留学が、それを決定的にしたのだよ』
 ならば、その憎しみを、この身に存分にぶつけてくれればよい。
犬のように打つことも、嫌がらせを重ねて医師免許を取り上げることも、王に讒言を
重ねて都から追放することも、待ち伏せをして河に投げ込むことも、出来たはずだ。
 それがどうして、アテナだったのだ。
一人で留守をまもっていた、罪のない、あの優しいアテナだったのだ。
「ダビドさま」
「いや。何でもない」
 ダビドは背を伸ばした。
奇病にかかった患者が運ばれたと聴いて身構えていたのだが、患者の発疹は
口にした食物による、一時的な反応だとすぐにわかった。
「今後はもう、黄色の果実を食べないように」
 薬を与えるように指示を出し、ダビドは次の患者を呼び入れた。

(これは、医学の発展のために、必要な臨床なのだ)
 アテナの四肢を押さえ込んだ男たちは、そう言っていたそうだ。
 街には、うまい具合に疫病が流行っていた。そして、男は外国へ
留学して留守だった。
入れ替わり立ち代わり、数え切れぬほどの大勢の男たちが、アテナの股の間に
腰の杭を打ち込んだ。それは途切れなく、女の悲鳴が掠れあがっても、構うことなく
続けられた。
(この女は献体だ。犯された女が、何人目で息絶えるかを、これから調べる)
 それは、野蛮国の私刑方法の再現だった。
若くして頭角をあらわしたダビドを妬む医師たちが、大勢の奴隷男たちを
引き連れて家を訪れた。彼らはダビドの妻を穢し、アテナの性器について感想を述べ、
冷酷な目をして立会い見物をしていた。
 生贄が弱ってくると、気つけの薬や強い薬を与えて、続行させた。
ダビドへの、彼らの妬みと私怨は、それほどに強かった。嫉妬と憎しみが彼らの
加虐性を煽りたて、男たちはダビドに出し抜かれたその悔しさを、罪のない女の中に
叩きつけ、それを当然だと思ってすらいた。
 やがて、女の呼吸が止まり、擦り切れるようにして、命が終わった。
彼らは脚を拡げられたアテナを取り囲み、胸に耳をあて、瞼をめくってそれを
確認し、書き留めた。
 その死は、疫病による死として、ダビドの許に届けられた。
私刑に参加した同僚の医師が平然としてしたためた、お悔やみと、検死報告つきで。


 エウニケの許に行こう。
ダビドはようやく、重い腰をあげた。
アテナの死以来、思い出すだけで辛いアテナの死に様を自虐的なまでに
思い起こすことでしか、女のことについては積極的に動けなくなっている。
そんな不甲斐ないこの身体を叱咤して、エウニケに逢いに行こう。
一応は、再度確かめておいたほうがいい、口実もあることだ。
「あの。ダビドさま」
 キュロスの家に行くと言うと、ネリッサが、妙な顔をして追いすがってきた。
「なんだ。どうしたのだ」
 午後は往診もなく、暇なはずだ。
ダビドは、何かを言いたそうにしているネリッサの顔を見た。
そういえば、今朝がた、ネリッサはキュロスの家に遣いに行っていた。
胃を悪くしているというキュロスの奴隷の容態が、かんばしくないのだろうか。
「どうした。何かあるなら、言いなさい」
 一刻とたたず、ダビドは診療所を走り出て行こうとしていた。
「ダビドさま!」
 飛び出していくダビドの腰にしがみつくようにして、ネリッサはダビドを引き止めた。
男の力に引きずられながら、ネリッサは踏ん張り、必死で叫んだ。
「お止め下さい。もう間に合いません。もう連行されてしまっております」
「何かの間違いだ」
 ダビドはどなった。
「エウニケは寡婦ではない。わたしがそれを証明できる。左手の甲にあったのは
寡婦の刺青ではなく、痣だ。生まれつきあった痣だ。誰かがそれを刺青と
見間違えたのだ。わたしがその証人になる。キュロスもそれを知っている。
エウニケは寡婦などではない。誰かと間違えられたのだ」
「おやめ下さい。これ以上、あの女奴隷に関わることはお止め下さい。
ダビドさままで、罪に問われてしまいます」
「退け!」
「退きません」
 女に手をあげたことはない。しかしこの時、ダビドはネリッサに手をあげかけた。
反射的に、ネリッサが腕で顔をおおった。そのために戸口に隙間ができた。
「ネリッサ!」
 押し通ろうとしたところ、入り口のところでネリッサは両手を拡げて、泣きながら
行く手をふさいだ。
何事かと、騒ぎに助手たちが駆けつけてきた。
「ダビドさま、どうなさったのです」
「ネリッサ」
「監獄に行ったら、ダビドさままで、捕まってしまいます」
 ダビドはネリッサを横に退けたが、主の大事とばかりに集まった助手たちが
ダビドを押し包んで、行く手を塞ぐほうが、はやかった。
「ダビドさま!」
「ダビドさま。そのようなご気色のままで監獄へ行くなどもっての他です」
「知人の方が捕まったのでしょうか。それならば尚更のこと、慎重にしなければなりません。
金子を用意しなければなりません。あそこは、監獄長官にかわり、魔物よりも怖ろしい
破廉恥な女が牛耳っているところです」
「ダビドさまが監獄の中に誰かを訪ねたと知れたら、きっとその者は、ダビドさまのために
苦しむことになります。獄吏たちはダビドさままで参考人として捕え、ダビドさまを
責めることで、その者をより苦しめることでしょう」
 助手たちも必死だった。彼らはダビドを尊敬し、愛していたので、無防備のままで
獄舎などには向かわせたくなかった。
「占領地の医師は、定期的に獄舎を見舞うことが義務づけられているではありませんか。
その時を待つのです」
「誰か、エラスムス様を呼んでこい」
「ご主人さま、ここは、こらえて下され」
 老いた下僕も、地に額をすりつけ、ダビドの脚にすがって引き止めた。
 ダビドは放心して立ちつくした。頭の中が疲労とも昂奮とも、怒りとも絶望とも
つかぬものに満たされていた。ネリッサが泣き伏した。
 やがて、ダビドの全身が氷に漬かったように、ふるえだした。
 エウニケが、捕まった。


 ダビドさまは……ダビドさまは、お元気でしょうか。
エウニケは、そう言った。


 一般的に、その労働が過酷なほど、それに比例して奴隷は無口になっていく。
奴隷はものを言う道具。この格言をそのまま体現するかのように、奴隷たちは、
その扱いが家畜に近くなるほど、人間性を失い、道具のようになっていく。
なかでも性奴隷たちは、その調教の効能もあってか、かなり早いうちに言葉を失う。
それは、環境に順応しようとする、奴隷たちの本能的な知恵なのだ。
快楽の道具として主人に気に入られること。恥ずかしい芸や媚態を披露し、性技を
駆使して、媚びること。
 性奴隷たちは、主人や客を悦ばせるような卑猥な言葉を口にすることを求められるが、
慎ましい者は、それが出来ぬので、羞恥という、かえって主たちを悦ばせる鎧をまとう。
その結果、ますます言葉を発しなくなっていくのだ。
 エウニケも、例外ではなかった。
そうすることで心を護ろうとでもいうかのように、その美しい唇を閉ざし、あれやこれやと
キュロスとネリッサがその肉体に仕掛けることについても、怯えた哀しそうな顔を
するばかりで、感想を求められても何かを述べることは、ついぞなかった。
「おとなしい女だろう」
 キュロスにとっては、それも気に入っているようであった。
もっとも、そんなエウニケを屈服させて、上品な口から恥ずかしいことを口にさせる
過程が愉しめることを、喜んでいるようだった。
「キュロスさま」
 寝所の扉が叩かれて、下僕がキュロスを呼んだ。
「軍からの、遣いか」
 キュロスが淫具をふるう手をとめた。
「仕方がない。休憩させてやろう」
「キュロスさま、あとはわたしが」
 ネリッサが引き取った。
 ひいっ、ひいっ、と切羽詰った声を上げて、よがり上がっていたエウニケの
細首が、二人の間で、がくりと垂れた。
 キュロスが寝所から出て行ってしまうと、ネリッサは、エウニケの膣から淫具を取り出し、
肛門の中にも入れられていた責具も引き出して、取り外してやった。
少し考えたが、手足の拘束はそのままにしておいた。
 女二人で室に残されるのは、はじめてだった。
エウニケは、すべすべとした白い肌をひくつかせて、余韻の中に小さく喘いでいた。
その股の間には、零れた淫水がしみを作っており、下唇も湿ったまま、ネリッサに
拭かれるままに、紅色のその入り口をゆるく閉じていた。
 かたちよく盛り上がったエウニケの乳房や尻を眺めながら、ネリッサは値踏みした。
 調教は順調だ。
 都に連れていけば、どんなに気難しい主でも満足させる、第一級品の
性奴隷として高値がつくだろう。
(はやく、完全な性奴隷にしてしまわなければ。喉を潰す薬を呑ませてやるのもいいわ)
「……お願いです。教えて下さい」
 ネリッサはとび上がった。奴隷が口をきいている。
美しい奴隷は、悦楽の名残のなやましい顔をして、ネリッサに何かを問いたげにしていた。
水が欲しいのだろうか。
 エウニケは極度に緊張しているようだったが、縛られたままのその不恰好な身体を
出来るだけ動かさぬようにして、切なげに、ネリッサを仰いだ。
ネリッサがダビドのところの女奴隷だと、知っている顔だった。
 エウニケは迷いながら、知性の宿る、その美しい目をさまよわせるようにしていた。
ネリッサが苛々してくるほどに、弱々しくも、一途に何かを想う様子で、控えめだった。
初恋の乙女か何かのように、処女のはじらいで、やがてそれはそっと、言葉にされた。
 かあっとネリッサの頭は燃えた。
 黙れ、黙れ、ダビドさまのことを口にしないで。
 抜き取ったばかりの淫具を引っ掴むと、それをエウニケの膣の中に押し込んだ。
エウニケが悲鳴を放ってのけぞった。ネリッサはぐいぐいとそれを揺り動かした。
無慈悲な主が逃亡をはかった女奴隷にするような方法で、ネリッサはエウニケを懲らしめた。
 黙れ、黙れ。
 拘束されているエウニケの四肢が引き攣り、突き上げられているその身がのたうった。
涙を流しているその顔を、自分の顔のように思いながら、ネリッサは責めることを止めなかった。
 キュロス邸からの帰り、ネリッサは紙片にあることを書き付けると、それで石を包んで、
獄舎の裏門が見える物陰に隠れた。
 簡単なことだ。これを門衛の前に投げ、そして何くわぬ顔をして、ゆっくり歩き、診療所に帰ればいい。

 『帝国軍人であるキュロス邸に、エウニケという名の、左手の甲に傷跡のある女奴隷がいる。』
 
 ネリッサは胸の中が焼け爛れるままに、どん底まで暗くなっていくのを覚えた。
無駄だ。エウニケが捕縛されたなら、ダビドさまは、その時こそエウニケへの愛を
自覚され、エウニケのために、奔走されるだろう。
この書付が渡れば、エウニケだけでなく、ダビドさままで、破滅してしまうだろう。
縁もゆかりもない患者のために、奴隷たちのために、あれほどの深い思いやりを
みせているダビドさまなら、その情でもって、エウニケと心中することも、いとわぬだろう。
 ネリッサは、密告を断念した。ダビドのために諦めた。エウニケのために諦めた。
あの人たちはわたしなどよりも、ずっとずっと、素晴らしい人間だ。
 打ちひしがれて引き返すネリッサの耳に、通りすがりの兵士達の大声が耳にはいった。
「ラウラさまはまったく悪知恵がまわる」
「屋敷もちの将校たちの奴隷を買収して、各家にいる奴隷たちの情報を集めるとは」
「エウニケが、どうやら、見つかったそうだぞ。捕縛隊がもう向かったそうだ」
「それは楽しみだ。監獄ではラウラさまが、手ぐすねひいてエウニケを待ち構え、
無力な女を陰湿にいたぶる悦びに、はだかのままで、祝杯をあげておられるとか」
「毒蛇に引き裂かれてしまう前に、エウニケを拝みたいものだ」
「ここで待っていれば拝めるさ。ラウラさまはエウニケを、犬のように引き回して
連れて来いと言ったそうだからな」
「まずは、ラウラさまお得意の、身体検査だな。どんな些細な欠点も、あの女は
見逃しはしないのさ。足の指の股の間までぺろぺろと舐めて、目を光らせながら
犠牲者を嗅ぎまわり、調べるというぞ」
 笑い声を上げて、兵士たちは行過ぎていった。


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